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それから64話

「淳平・・」
「せ・・せんぱ・・い・・」
 弘夢と渡は同時に固まる。
 淳平はゆっくりと瞬きをすると、真っ直ぐに渡だけを見つめていた。
「淳・・」
「渡・・お前、そこの“時枝”って男に頼まれて俺と弘夢を引き離そうとしたのか」
 弘夢の呼びかけは直ぐに淳平の低く通る声に掻き消された。
 渡が焦って泣きそうな顔をしながら身体を淳平の方に向けると、飛びつく様に淳平の胸元を掴んで必死に訴えた。
「違うんですっ・・いえ、あのっ・・確かに最初はそうでした・・でも!いつの間にか先輩の事、本気に好きになっちゃって!だから・・今日は時枝さんにこの仕事を辞めたいってお願いしに来たんです!信じて下さい!!」
 渡の目に涙が溜まって行くが、渡は瞬きもせずに淳平を見上げる。

 弘夢は反吐が出そうだった。

―今更そんな嘘か本当か分からないセリフを吐いた所でどうなる。
―きっと俺の決意を聞けば、淳平は俺を選ぶ。
―早く離れろ!!

 弘夢が一歩二歩と前へ出て淳平に近づく。

 渡はギュッと淳平の胸元を掴んで眼を見つめる。

「淳平・・そいつの言っている事は嘘かも知れない。もう、俺と・・」
 弘夢はゆっくりと二人に近づく。

「俺は、お前と幸せになると決めた。渡。お前は本当に今俺の事が好きか?」

(何・・だ?)

 弘夢は淳平の言っている言葉を飲み込めずに立ち止まった。
 淳平は渡を見つめている。
 
 弘夢はハッとした。
 ここに来てから一度も淳平が自分を見てくれていなかった事に気付くと、脳の先から串刺しにされるような痛みが脊髄にまで走った。

「好きですっ・・先輩の事、愛してますっ」
 ポタリ、ポタリと渡の涙が零れ落ちた。

(それは俺が言うセリフだった筈だ・・俺の方が淳平を・・お前なんかよりずっとあいつを・・!)

 淳平の表情が柔らかくなった。
「なら・・それを信じる。お前を許すよ、渡。」
「せんぱ・・」
「帰ろう、渡」
 淳平の大きな手が渡を引き寄せた。

 弘夢はどこかで信じていた。
 淳平とどんな別れ方、そんな相手と結ばれてしまっても、芯では互いに誰も入り込めない次元で結ばれているのだと。

 淳平はホテルを出て行くまで、一度も自分を見ようともしなかった。話しかけても無視をされた。
 あの渡という男を選んだ。自分のように芝居ではなく、淳平の意志で。
 淳平と共に死をも覚悟する気持ちは、儚く枯れて行った。
 カラカラに乾いた落ち葉が無数の絶望という微生物に喰われていくようにジリジリと朽ちていく。
 自分が居る筈だったその場所は、今目の前で別の男が最愛の男に肩を抱かれてホテルを出て行く後ろ姿をただ眺めていた。

 自分が撒いた種だから仕方のない事だ。自分も以前淳平の前で木戸を選ぶ素振りを見せて絶望を与えた。
 だが、本心が変わる事は予想だにしていなかった。

「座ったらどうです?」
 時枝の声に誘われる様に、ふらふらとソファに倒れ込んだ。
「どうしようもない人ですね。君は。」
 時枝の声はさざ波の様に鼓膜を掠めていくだけだった。
 もう、本当に糸は切れたのだと実感した。
 或いは木戸を愛せれば自分も幸せになれるかもしれないと思った。だが、無理にそうした所で本気で愛せない以上、余計に木戸だけでなく時枝までも傷つける事になっている。
 木戸も時枝も気付いている。自分が今でも淳平を忘れる事が出来ないでいる事を。だから木戸は過剰に自分を痛めつける事を止めない。

 弘夢の中で自分の存在理由がふと消えた。

「・・にたい・・」
「はい?」
 掠れた声で合わない焦点のまま気持ちを呟いた。

「死に・・たい」

 時枝はそう繰り返す弘夢を冷ややかに見ると、口を開いた。

「別に、構いませんよ?」

 その言葉に弘夢がゆっくりと顔を時枝に向けた。
「私にとって君は邪魔ですし。自殺でしたら私がお手伝い致します。」
 そして時枝が内ポケットから黒皮の手帳をサッと取り出して言った。

「では、早速日取りと場所の打ち合わせを致しましょう。」
 ビジネスの打ち合わせでもするような口ぶりで時枝はカチリと眼鏡を指で上げた。



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